堀紘一氏 – ボストン コンサルティング グループ(BCG)出身の著名人【1】

ここではボストン コンサルティング グループ(BCG)の出身者について紹介します。BCGというと、日本でもっとも存在感の強い戦略系コンサルティングファームであり、日本との馴染みも深いファームです。今回紹介するのは、ドリームインキュベータの創設者である堀紘一(ほり こういち)さんです。

 

経歴

堀紘一さんは東京大学法学部を卒業し読売新聞社に就職しますが、その4年後に三菱商事に転職。35歳の時にハーバード大学経営大学院に留学し、成績上位5%の生徒に与えられる「Baker Scholar」というタイトルを獲得します。これは日本人としては初の受賞であり、2015年現在でも日本人は合計5名しか獲得していません。(ちなみに、そのうち4名がBCG出身者です!)

ハーバード大学経営大学院でMBAを取得した後、堀さんはBCGに入社します。そして入社9年目の1989年にBCGの代表取締役社長に就任します。堀さんは2000年までBCGの社長を務めた後、戦略コンサルティングやベンチャーキャピタル業務を行なう「ドリームインキュベータ」を設立し、同社の社長として現在に至ります。

 

BCGでの活躍

堀さんがBCGに入社したのは1981年、まだ日本では「コンサルティング」という言葉は馴染みの薄いものでした。今でこそ外資系トップ企業として名高いBCGやマッキンゼーも、「マッキンゼー?カバン屋さんか?」といった具合でした。当時の日本企業は「わざわざ外国の企業からのコンサルティングなんて受けなくてもやっていけるよ」という態度であり、なかなかコンサルティングファームは日本に定着しませんでした。そんな中、堀さんは「ホンダ」でのコンサルティング業務を行なうことになり、一生を左右するほどの出来事に出会います。

 

「ヤマハを潰せ!」HY戦争の参謀

当時、ホンダはオートバイ市場でヤマハと熾烈なシェア争いを繰り広げていました。それまで優勢を保っていたホンダでしたが、とうとうヤマハにシェアを抜かれてしまいます。この緊急事態を受け、ホンダの河島社長は堀さんを呼び出して「ヤマハを赤字に追い込め。ホンダにたてつく気持ちを向こう10年は持たさせないくらい、ヤマハの気持ちを萎えさせろ!」という恐ろしい指示を下しました。このホンダとヤマハの激烈な争いは「HY戦争」と呼ばれ、日本のオートバイ史にその名を残しています。

堀さんはこの無理難題に対してあの手この手で応え、ヤマハを「潰す」べく戦いをしかけていきます。そして堀さんが入社してから2年後、ヤマハはホンダに全面降伏し、ホンダが苛烈なHY戦争に勝利します。この争いでヤマハが受けた傷は大きく、売上高は前年より1,000億円減少。経常利益も144億円も減少し、たったの2億円となりました。さらにアメリカ販売会社の赤字による特別損失が加わり、総利益はマイナス160億円となりました。堀さんは見事にホンダの社長の期待に応え、ヤマハに大打撃を与えました。これをきっかけに、「BCGの堀紘一というのは凄いやり手らしいぞ」という噂が広まります。

 

社長就任 コンサルティングを日本に普及させる

しかし、BCG東京オフィスの経営は苦しい状態が続きます。1987年、東京オフィスを廃止するか否かの会議が行われた結果、まだ40代であった堀さんが社長に抜擢されることになりました。社長となった堀さんは、日本に「コンサルティング」を浸透させるべく奮闘し、日本における今日のコンサルの地位を作り上げました。BCGが日本で大きな存在感を有する理由は、アメリカ流のコンサルティングをそのまま流用せず、日本企業向けにアレンジした上でサービスを提供したからというのもあります。しかし、堀さん個人の実力がずば抜けていたというのも大きな理由でしょう。日本企業の経営陣は、BCGの名前を知る前に「堀紘一」という個人名を知ったといいます。堀さんはBCGを日本で有名にしたと同時に、「コンサルティング」という概念を日本に根付かせた人物でもあるのです。